• お問合せ
  • facebook
  • twitter
  • youtube
  • entry
ILH代表黒部のブログ

外から見た日本 2021

今年もVOICEを読んでいただきありがとうございました。毎回勝手なことを書いていますが、最近日本を批判するようなことが多いかと反省しています。しかしこれも日本を想う気持ちです。日本は美しい国です。食べ物は世界で一番、特に素材の美味しさでは世界遺産に登録されただけの理由はあります。そんな素晴らしい私達の国がこどもたちの未来に向かってより良くなっていくためには、海外から日本を見つめ考えることも必要かと思います。来る年2022も世界に目を向けた発信を続けたいと思います。

12月、日本脱出を企てた。というのは大げさだが、日本政府がオミクロン株の水際対策として、海外特にオミクロン感染者が出た地域からの帰国者には3日間指定施設での待機要請が出ていた。以前緊急事態宣言下で帰国した外国人スタッフ数名がホテル待機を体験していて、It's just like jailと言っていた。話では部屋からは一歩も出られず、毎日三食ドアの前にお弁当が配達される。しかし中身は朝から鯖の焼き物や脂身だらけの生姜焼きだったり、やっとパンが支給されたらお菜がしらたきの煮物だったりと外国人にとってはかなりハードなメニューだと言っていた。それにコンビニにもいかれないからコーヒーもビールも買えない。監禁状態である。こんな状態で海外に行きたいという人はアホ以外の何者でもないのだが、私には別の渡航理由があった。今年5月にハワイに住む息子がコロナワクチン接種を段取りしてくれた。もちろん日本でも接種はできたが5月に数年ぶりに5人の子供達とその家族がハワイで集まろうということになり、ハワイに来るのなら接種をして来るか、現地でしたほうがいいということになった。これも息子の親孝行かと受け入れることにした。
 それから数ヶ月たち緊急事態宣言が開け、やっと海外から子供達も戻ってこられると思っていた矢先、オミクロンが現れた。息子は我々の歳を心配してドクターに頼み、通常ソーシャルセキュリティーを持たない者は接種が受けられないところをねじ込んでくれた。こんな話をすると黒部さん、何もそこまでしてハワイまで行ってワクチンを打たなくてもいいんじゃないですか?アホと違いますか?と言われそうだが、もう一つの理由が私に国外脱出を計らせた。それは外国の様子、コロナ禍で他国の入国状況はどうなっているか、街の様子はどうか、またスタッフから聞いていた地獄の3日間は本当なのだろうか。どれもこれも自分で体験、この目で見なければわからないと考えた。なぜならランゲージ・ハウスにはクリスマス休暇で国に帰る外国人が多く、日本への再入国に夜も寝られぬほどに不安を抱えているものが多いこと、また来年外国から入国を予定しているスタッフの現地での近況も気になった。あれこれと考えるよりは行動ということである。
ハワイ、というより外国は日本より自己責任を重んじると感じている。例えば入国に際しても日本のような厳戒態勢は引いていない。どうぞ来たい方はきてください。その代わりどんなことがあっても自己責任でお願いしますね、と言った
対応である。ワクチン接種カードと日本で受けたハワイ州公認PCRの証明書提示は求められるが、日本のように着陸してから空港を出るまでに数時間もかけて検査チェックを行うようなことはない。
 ハワイでは全ての飲食施設、その大小を問わず入り口でのワクチン接種証明カードと身分証明書の提示が義務付けられている。マスクも然りである。この二つをチェックする専門の係を配置しているところも多い。内容チェック後、紙でできた腕輪をもらう。これは店ごとに色が違い、何軒かはしご飲食するとカラフルでファッション性のあるアクセサリーにも見える。日本では未だワクチン接種証明書の提示は義務付けられていない。しかし体温測定やアルコール消毒も一過性な部分があり、基準があって無いようなシステムにも見える。ハワイでは一度店内に入ると実に楽しく会話をしている。日本はお酒が入ると声が大きくなるがオフィス街のランチなどはシーンとしている。飛行機の中で見た香港映画が日本人のそんな光景を映し出し、「シー」と人差し指を立てて他人の会話を注意する姿を皮肉たっぷりに描いていた。外国人はよく見ている。
 滞在中日系ハワイ人のホームパーティーに招かれた。全員ワクチン接種済みというのが条件で参加した。入江に面した家からは日が落ちるとクリスボートのパレードが見える。昨年は自粛したというイベントだそうだが、今年は皆大声で声援を送り、船からは裸同然で踊りまくる人々の姿が見えた。
 「昨年の今頃は暗かった。心も暗くてみんな落ち込んでいた。でもワクチン接種の後は皆その効果を信じて楽しく生活しようとしている。もし羽目を外して感染したとしても個人の責任だ。コロナはそんなに簡単には終わらないことを皆が分かっている。でも人間は我慢しすぎたり、心配しすぎるともっと別の怖い病気になる。ハワイ人はそれをよく知っている。明日をもっといい日にするには
ポジティブに生きる、これがハワイの流儀だ。」と話してくれたパティーのホスト、私は彼を日本に連れて帰りたいと思った。
 日本に戻り3日間のホテル待機を体験した。成田に到着してからホテルに着くまでの時間が7時間、外国人スタッフが体験したと同じように部屋からは一歩も出ていない。テレビを見るかパソコンでネットフリックスを見るか、本を読むかである。窓が5センチしか開かないのでエクササイズをする気にはならずまったりと一日が過ぎていく。私はここが自分の国なので文句を言ってもしょうがないと諦めている。ただ外国人たちはこれをどう受け止めるか。
 日本はすでに外国人労働者なしでは機能しない国になっている。しかしコロナによる鎖国政策で足止めを余儀なくされている外国人はベトナムだけでも3万人はいると言われている。ランゲージ・ハウスも海外から人材が供給できないままでいると大変なことになる。そして何よりも日本に住む外国人はクリスマスに家族と過ごすことは待ちわびている。今更200年続いた鎖国を再現するわけにはいかない。
 

どうして英語に出会ったか

よく「黒部さんはどうして英語が好きになったのですか」と聞かれる。残念ながら英語を勉強の一つだとすると好きになったことはない。私は英語に出会った時から、この言葉が話せれば世界をもっと知ることができると信じていた。
英語に出会ったのは3歳の時に通っていた米軍キャンプのバレエクラスだった。先生は日本人だったが、生徒のほとんどがアメリカ人だった。「わあっ、お人形さんと同じ髪の色をしている!目の色が違う!」と子供心に外国人に対する憧れの気持ちが芽生えた。その子たちのそばに行くと金髪でふわふわの髪がサテンのリボンで結ばれ、そのピンク色は今までに見たことのない外国の色、着ているレオタードもピンクで、私にとっては絵本の中に紛れ込んだような不思議な感覚があった。その時は英語?という言語の意味さえ知らなかったが、少女たちへの憧れは、私も同じ言葉で話したいという気持ちに変わった。
 その後小学生になってビートルズに出会った。といっても彼らの曲と歌詞である。あまりヒットしなかったが"The Fool on the hill"という曲がある。直訳すると「丘の上にいる馬鹿」となるが、メロディーが良かったので何回も聞いていた。そうしているうちにこの男は馬鹿ではないんじゃないかと思うようになった。当時高校生だった従姉妹が英語好きでそのことを質問したところFoolという意味は愚か者、笑い者、瞑想している人、意識のない人などいろいろあり、この曲の場合は他人からは馬鹿に見えても、本当は真実を知っている者というニュアンスが正しいのではないかと話された。確かにSee the sun going down
And the eyes in his head, See the world spinning aroundという歌詞を見ると実は真実を見抜いている男とも理解できる。もちろんそう理解したのは私自身が高校生になってからだが。
 中学生になり英語が書けるようになると、当時流行ったペンフレンドを探し求めた。貿易商を営む叔父がフィリピンの女学生を紹介してくれた。その時叔父がくれた英語の手紙の書き方という本は今でも大切に使っている。クリスマスカードやお礼文などに使う単語が実に綺麗で品がある。多分今では使われなくなった単語もあるかもしれないが、イギリス人にカードを送る時は必ず参考にしている。中学時代はもう一つミュージカル映画が英語学習の起爆剤になった。
The Sound of musicやWest side storyはセリフが覚えられるほどよく見に言った。特にWest side storyはニューヨークアクセントの強いセリフ、スパニッシュ訛りのセリフなど、今まで触れたことのなかった英語の世界を知り、気がつくと少し英語が話せるようになっていた。
 高校時代は英語氷河期だった。英語を教える日本人教師の文法攻めにあい、英語そのものの興味を失った。句や節など私にとってはどうでもよかった。一体こんな勉強を誰が考えたのかわからないが、将来言語学者になる以外は役に立ちそうもないので勉強をする気にもならなかった。結果英語の成績はひどいものだった。酷い者だったが、英語を話すという興味だけは失せてはいなかたので、友人と帝国ホテルのロビーに座って外国人をナンパしたり、国際貿易コンベンションなどを見つけては出かけて言った。ある時晴海で行われたアメリカンフェスタに行ったら本物のNative Americanが踊っていた。アメリカンフードのプロモーションだった。缶詰やクッキーなど色とりどりのディスプレイと英語の文字に圧倒された。日本の鮭缶やコンビーフ缶とは違って見たからに美味しそうだった。(実際には日本の缶詰の方が美味しいのだが)私は缶詰に英語で書かれたレベルの内容を知りたくて一つ購入するとしばらくそれが英語の教材となった。
 大学になって打ちのめされた。同じ年でこんなに英語の話せる人たちがいるということだった。クラスの三分の一が帰国子女、そしてミッションスクール出身という小学校から12年間私が受けた英語教育の何倍もの量をこなしていて英語が身体中に充満しているかのようだった。この先4年間一体どうやってこの人たちとクラスを共にしていくかを考えると絶望的な気持ちになった。特に帰国子女達の発音があまりに外国人で顔も日本人なのにどこか違って見えた。
それでも何とか卒業できたのはこの帰国子女達のおかげである。日本語がよろしくない彼女達と試験やレポートでGive and takeの協定を結んだ。結果はまずまずであった。ときには出席の返事までしてくれる良き友には今でも感謝している。彼女達と話しているとちょっと外国にいるような気分になることもあり、英語はさておいて海外生活への憧れが芽生えたのもこの頃かもしれない。
 就職活動は英語抜きで行った。なぜか。当時英語を使った女性の仕事といえば商社が主流だった。しかし学生時代の成績がそこそこでは到底超えられないハードルだった。負け惜しみではないが商社には興味もなかった。元来事務仕事が嫌いで30分デスクに向かっていると吐きそうになる。まして一日中オフィスで過ごすなどもってのほかである。キャビンアテンダントも多少憧れはしたが試験がかなり難しいと聞いていたので辞退?させていただいた。結局シンクタンクに入社したが、辞めるときに「久保さんはあの大学出ているのに驚くほど英語ができないんだね。」と言われた。真実である。
 それでも私のどこかで海外への憧れは大きくなっていた。仕事を1年半でやめフリーターとしてインチキな翻訳や通訳をやった。インチキというと誤解されるかもしれないが、要するにプロではなかった。しかし英語のニュアンスを取るのは得意で外国人には重宝された。サイマル社からきた女性通訳にあなたの英語はかなりやばいと言われていたが。あちらは時給1万円(当時でさえである)こちらは¥1000だから言われても仕方がない。ただ外国人と一緒に話しているのが楽しかった。
 結婚して1年目で海外での生活が始まった。運よくNYという街に住むことになり、そこで英語の楽しさを体から感じていた。なぜならそこに住む人はコミュニケーションを何よりも大切なものとし、それが生活の糧にもなっていた。
「楽しい生活を送りたかったら英語で隣人に声をかけてごらんなさい。そこから全てが始まります。」と教えてくれた人たち、このエッセイのタイトルである「どうして英語に出会ったか?」は「人に出会ったから」と簡単な答えで締めくくる。

PAGE TOPへ