• お問合せ
  • facebook
  • twitter
  • youtube
  • entry
ILH代表黒部のブログ

英語を小学校の正式教科にする?という記事

7月27日朝日新聞の読者とつくる欄で、英語を小学校の正式教科にする?という記事があった。
小学生英語は11年度から5、6年生で週1コマになった。がしかし、正式教科ではないので成績評価もない。これを先頃、政府の教育再生実行会議がコマ数の引き上げと、開始年齢の引き下げを提言した。あくまでも提言で、具体的に何がどう実行されるのかが解らないのが行政。では小学校の英語学習現場はどうなっているのだろうか。
私も直接現場を見ている訳ではないので、ここは小学生を持つ保護者の方々からの話をまとめてみた。
○ 週1回では何にもならない。英語塾に通っている子との格差が増すだけ。
○ きちんとした年間プログラムの中で英語を教えられる教員が確保できていない。
○ 外国人は以前お客様で、国際理解クラスは直接英語学習には結びつかない。
○ ちょっと話せる子供は先生に逆ににらまれる。
など、など、あまりうれしい話は聞かない。私も以前横浜市教育委員会に体育の時間に英語を導入しませんかと持ちかけて、スポーツ課に回された。少なくとも体育の時間に英語を導入すれば、居眠りして講義を聞く生徒が減るかもしれないと思っただけなのだが。その時に感じたのは、行政の方々にとって、横浜市の小学生が英語を話せるようになろうとなかろうと大した問題ではないということだった。本当に子供たちの将来を思うのであれば、6、3、3の英語学習プランが自然とできそうなものだが、英語学習の内容は1960年代とさほど変わっていないのが現状である。(変わったと思う人はテキストブックの色彩と紙質トリックに影響されたのかもしれない。)
 今回の教育再生実行会議も、現状をしっかりと見据えて、長期プランをたてなければ、アジアで一番英語のだめな国日本が簡単に出来上がってしまう。こうなってはグローバル化に対応した教育などというにはほど遠い環境で、いつまでたっても日本人がグローバル社会の中で貧乏くじを引き続けることになる。本気になって日本の英語教育を考え、実行してくれる政治家はでてきてくれるのだろうか。
 

スタンリーのお弁当箱

と言っても、幼稚部にスタンリー君がいるわけではない、映画の話である。インドでは未だに5,000万人の若年労働者がいると言われている。その現実をお弁当箱を通して社会批判している映画が東京で上映されている。この映画を撮影するにあたって、キャストの子供達は一日も学校を休むこと無く、成績も落とすこと無く、また多くの保護者からの協力のもとで製作された社会性のある映画である。
 スタンリーはムンバイにあるキリスト教の学校に通う小学生。子供たちは比較的裕福な家庭から来ている中、スタンリーは事故で両親を亡くし、レストランを経営している叔父のところで生活している。叔父はスタンリーを食い減らしとしてあつかい、店の裏方の仕事をさせ、寝床は調理台の上に布団を敷いただけのひどい環境の中にスタンリーを置いている。でもスタンリーには天性の明るさと子供らしい素直さがあり、クラスの人気者として、また学習の面でも優秀な生徒として先生達からも注目されている。ただ一人の教師がスタンリーを目の敵にしている。この学校はキリストの教えに基づいて、昼のお弁当を誰にでも分け与える。その中で一人だけお弁当を持参しない教師がいる。またスタンリーもお弁当を持参しない、というか持参できない一人で、いつもクラスメイトからお弁当を分けてもらっている。教師はこれが気に食わない。クラスには金持ちの子弟がいて、いつもフルコースのお弁当を持参する。教師はそのお弁当を頂くのが人生最高の楽しみとばかりに、お昼時間になると子供達の前に表れては、そのほとんどを平らげる。ところがある日教師がお昼時間に送れてくると、そのフルコースはすべて食べられていた。教師はスタンリーがお弁当を持参していないことを知っているので、人の食い物を盗み食いする最低な人間としてスタンリーをなじる。子供達は教師には逆らえないので黙っているが、次の日から場所を移動しながら、教師にお弁当を取られないような作戦に出る。でもある日とうとう居場所を発見され、スタンリーは教師からお弁当を持参できない限り学校には来るなと言われる。スタンリーは友達に両親は今デリーに出張しているのでお弁当が作れないとうそをつくが、本当は彼のお弁当を作ってくれる親はいない。スタンリーに同情を寄せているレストランの料理人は、その日にあまった料理をお弁当箱につめ、冷蔵庫に隠してスタンリーが朝、こっそりそれを学校に持っていけるようにする。スタンリーはそれを学校に持っていくと、僕のママが作ったといって自慢げにクラスメイトや先生に振る舞う。スタンリーを追い出した教師は、子供達が校長に真実を告げたことで首になり学校を去っていく。
 映画はインドのミッションスクールの日常を淡々と映し出し、同時に、お弁当を通してインド社会の不合理を鮮明に描き出している。日本の幼稚園では、いわゆるキャラ弁とよばれる、まるで絵に描いたような美しくかわいいお弁当が主流になっているが、この映画に出てくるお弁当の中身は、一切れのサンドイッチ、バナナフライ、パン二切れ、ビスケット、豆のカレー、フライドライスと本当に質素でシンプルなものばかり、でもどれも美味しそうで、それを食べる子供達の顔はどれも輝いている。しかし、インドにはスタンリーのようにお弁当を持ってこられない子供達はたくさんいる。スタンリーは学校に通えているのでまだ恵まれている。学校にも行けずお昼も食べられず過酷な労働を強いられる若年労働者の実態は想像を絶するものがあると思う。ここで少し考えたいのは、日本のお弁当。スーパーではお弁当専用のあらゆる冷凍食品があり、それを引き立てるお飾りものも反乱している。ママ達は毎朝子供達のためと一生懸命お弁当作りに励む訳だが、時として、見栄え優先で味がおろそかになってはいないか、作る義務優先で愛情がおろそかになっていないかと考えることもある。愛情とは、美しいお弁当を作ることも一つだが、昨晩の残り物を入れて一言「これ昨日のおかずだけど残すともったいないから最後まで食べようね、」と教える愛情のことである。インドのお弁当映画から教えられた
子供が一生忘れることの無い本当のお弁当とは、考えてみたい。

グローバルということ、そして子供たち

私の子供たちが通っていた幼稚園はNYCにある民間経営のところで、3歳児〜5歳児まで、各クラス15名ほどの小規模な園だった。今年からこの園とランゲージ・ハウスとは国際園児文化交流を始めている。将来的にはお互いの保育士さんの交流を考えているが、アメリカの雇用条件と日本のとではかなり違うので、実現するにはいくつかのハードルを超える必要がある。ただ園児同士の文化交流は現実化していて、この7月にランゲージ・ハウスの園児が製作した、七夕アートを送る。 さて、このNYの園、園児の60%は英語を母国語としない国から来ている。また保育士も、私の覚えている限りでは、アフリカ人、ベルギー人、フィンランド人など、若干その国のアクセントが英語に反映されるようなこともあるほどの国際色豊かな人材が集まっていた。ただそれぞれの国で保育士としての経験を積んでいる人たちなので、いったん保育に入るといわゆる保育のつぼをしっかり心得ている保育の達人ばかりだった。また異なる文化的な背景から、園児達は日常でも世界のあらゆる文化に触れることができ、毎月かならずどこかの国のお祭りや、宗教行事までも客観的に紹介していた。 NYに出張に行くと、それぞれに成長し、各区分野で活躍している卒園児達とあって話すこともあるが、園で学んだり、経験したりしたことが社会人になっても生きているという話を聞くと、いかに幼児期に受けた影響が、後々まで子供たちの社会生活に影響するかということである。アフリカ人の先生があるとき民族衣装で現れ、英語ではなくスワヒリ語でおはようと声かけしたり、ベルギー人の先生がフランス語の歌を教えたり、フィンランド人の先生はフィンランド体操を教えたりしたそのことが、異文化を受け入れ理解する力につながり、言葉を超えて子供達が成長する環境を作っていたのだと考える。アップル社に勤務している卒園児の一人がこんなことを言っていた。「うちの会社にはハーバード大学から来た奴が掃いて捨てるほどいるけど、アメリカで生まれ育って、アメリカから出たことも無く、ハンバーガーが世界で一番うまい物だと言いながら、それ以外のものは卑しいものだと信じているようなやつは、ほとんどが入社1年で首になるか、辞めていく。グローバルなものを作るには、まず相手を理解し受け入れること、でもこれを大人になってからやれって言われても無理かもしれない。グローバルな環境で育ったやつは自分がここでどう泳いでいくかをちゃんと知っているよ。」 日本でもグローバルという言葉はよく使われるが、この意味を国際的とか、海外とかで関連づける人が多い。これが日本をグローバル教育後進国にしている最大の問題かもしれない。

PAGE TOPへ