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ILH代表黒部のブログ

保護者と教師のお付き合い

先日実家の母が93歳という高齢で亡くなった。東京は板橋区にある寺の長女として生まれ、一世紀近くを地元の人々との輪の中で生きた。コロナ禍でお通夜や葬儀には参列したくないという方々が多いと思ったが、母は豪華絢爛な花いっぱいの葬儀を望んでいるに違いないと弟と話し合い、祭壇から昔風の宮型霊柩車まで昭和の元気がそこかしこに見られるお葬式を行なった。参列者のほとんどが90歳前後の高齢者であった。その中に私が小学校2年生の時に担任だった坂下先生の姿があった。現在89歳の先生は、当時新潟から東京に赴任してきたばかりで、壇上に立つと緊張で真っ赤になり、新潟弁も抜けきれない話し方をするが、誠実で裏表のない熱心な教育者だったと記憶している。持ち上がりで3年生の担任になり、同時に児童たちも先生に慣れてきたせいか、そう簡単には言うことを聞かない生徒も増え、授業中のおしゃべりもひどくなったある日、先生はクラスの児童全員に詩を配った。「あっても見えない、あっても聞こえない、あっても話せない、そんな目、そんな耳、そんな口」というようなタイトルだったと思う。この詩を読んでいる先生の声が涙声になり、急にクラスが静まり返った。生徒たちは先生にすまない気持ちになり、一緒に泣いてしまった。しかし翌日からクラスの雰囲気は一変し、誰もが坂下先生を中心に3年2組は素晴らしいクラスに変身した。そんな先生が昔を振り返ってこんな話をしてくれた。
「あなたのお母さんが校長先生や他のクラス担任の先生に声をかけて食事会をしてくれた時、先生たちは本当に嬉しそうだったのよ。ほとんどの先生が地方出身で、東京の人たちと食事をしたり、お酒を飲んだりする機会は全くなかったから、やっと地域が自分たちを受け入れてくれたと思ったの。保護者の方々が手作りでお料理を作ってくれて、本当に家族みたいだったわ。」これは1960年代の話であるが、実際教師と生徒の家族が飲み食いするのは自然なことだったようである。母は音楽の先生とも交流を深め、先生が退任すると直ぐに地元で音楽教室を立ち上げて欲しいと持ちかけた。感性を教育して欲しいというのが目的だった。今ランゲージ・ハウスにあるグランドピアノ、マリンバ、小太鼓は全て先生のご遺言で寄付していただいたもので、すでに50年以上経っているが立派にその役割を果たしている。
時は変わって令和3年、コロナの影響もさることながら、小学校の先生を自分の家に招いて食事会などありえないことになってしまった。PTAの集まりでさえ簡素化し、飲めや歌えをワイワイとやるのはどこか世間様にご迷惑というような、何かを心配して積極的に宴会コミュニケーションをやらなくなってしまった今である。
しかし私は日本人の国民性を考えたい。古来日本の村々には多くの祭りがあり、人と人が集まり群れをなすことで形成されていた。日本人は元来飲み食いが好きで、これがコミニュケーションの形成に役立っていた。そしてメンタルな健全性も提供していた。群れをなすことで自信と力を発揮する国民性は日本人の特徴だと言っても過言ではない。しかし日本人の生活スタイルが核家族化し、考え方も昔とは打って変わった。先日ある調査で日本人が幸せを感じる住居環境とは「静かで侵されない」がトップだった。これを見てアメリカのテキサス州で訪問したシニアータウンを思い出した。このコミュニティーには子供がいない。朝から以上な静けさがあり、ゴーストタウンのようだった。道を歩く老人も決して幸せな顔をしていない。しかし彼らは静けさと侵されない安全を求めてここに移ってきたのだが、私は決して住みたいとは思わなかった。人間は誰でも死んだら十分な静けさが与えられている。
10月から緊急事態宣言が緩和される。とは言ってもまだまだ生活の安全を最優先にしなければならない。しかし少なくとも人の波が戻り、数時間でも飲み食いの日本文化が再生されれば、日本人はもっと元気に働けるようになる。できれば保護者と学校の教師がワインでも飲みながらワイワイと教育論を語る、そんな環境をランゲージ・ハウスで作りたい。

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