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ILH代表黒部のブログ

黒部さん家の教育回顧録 2015

前回のお話は子供達の名付け親のマーグレットとプールで出会い、初めてのデートに誘われたのがニューヨーク自然史博物館だった。

マーグレットはいきなり私を地下の暗い展示場に連れっていった。私としては鉱石などには全く興味がなかった。それよりも文化人類展示場にあるアメリカンインディアンのコスチュームやジュエリーを見たかった。でもマーグレットはえらく興奮していた、" you will like it"と自信満々だった。展示場にはジュエリーも展示してあり、エリザベス女王の王冠とかがあり、だんだん私にも興味が持てるようになってきた。そこへドーン!と登場したのがそのダイヤモンドだった。確かに大きい、ホープダイヤモンドと言われていて厚さが12mmもある。ブルーがかった怪しげな色をしたダイヤモンドで、持ち主もいろいろと変わったらしい。しかしアメリカ人のダイヤモンド好きは尋常ではない。マーグレットはなかなかその場を離れない。私の頭はすでにアメリカンインディアン、しかしマーグレットはダイヤモンドに釘付けだった。悲しいかなその頃は英語で自分の意志を自由に語れないので、しばらく私はダイヤモンドを見つめるしかなかった。
 自然史博物館で2時間ほどを過ごした後、マーグレットがどうしても連れて行きたいところがあるという。どこ?と聞いてもイーストサイドというだけで答えてくれない。当時私はとっても暇だったので、どにでもお供しますということで付いていった。
 マーグレットが連れて行ってくれた先はThe Brearley schoolという女子校だった。1909年に創設された学校は、ニューヨークで一番を争う進学校で、毎年多くの女子をハーバードなどのアイビーリーグに送っていた。ニューヨークのエスタブリッシュメント達は女の子が産まれたらブリアリーにを合い言葉にするぐらいその存在は今も大きい。ただ私の方は妊娠はおろか子供を作ることさえ考えていなかたので、なぜマーグレットが私をこの学校に連れて行ってくれたのかがわかるのはそれから8年近くたってからだった。そして自分の娘がそこの卒業生だということがわかったのもそれから2年後だった。
イーストの83丁目にある学校から彼女の住む41丁目までをバスで乗り継ぎ、初めてチューダーシティーなるアパートにお邪魔した。自分たちの住むところとはおよそ比べ物にならない、重厚でどっしりとした内装の建物だった。そこで出会ったのが自称アーティストのダイアナというマーグレットの長女だった。ちょっと年増に見えたが明らかにニューヨークのお嬢様といった風合いが印層的だった。おまけに英語が美しすぎてよく分からない。なんというのか品が良すぎてついていけない。これがニューヨークの上流家庭だとしたら、私が英語を真剣に習おうと考え始めた時期だった。

インド教育事情

今回は「黒部さん家の教育回顧録」を一回お休みさせていただき、インド最新教育事情をお届けしたいと思います。


 


年末から新年にかけてインドに行ってきた。目的は本場でボリウッドダンスのレッスンを受ける事と、先生を探す事、そして以前に先生をしてもらったインド人の先生に赤ちゃんが産まれたので、そのお祝いを持ってインドまで出かけた。場所はデリーから車で6時間かかるパンジャブ州のチャンディガールである。私たちがインド人のトレードマークのように思っているターバンを頭に巻いたインド人が多い街でもある。彼らはシーク教徒で、元来体が大きく健常なので、軍隊やポリスは殆どがシーク教徒達である。一見帽子のように見えるターバンは、長い布を巻き付けて納める。朝寝坊をして遅刻しそうでも、である。


 


さて、インドの教育事情である。現在インドは新しい首相Mottiのリーダーシップで国民の結託が強く、これが経済を力強く牽引している。アメリカでタクシーに乗るとオバマ大統領の悪口が殆どであるが、インドでは" We love Motti"


で支持率が高い。なぜ?と聞くと、即断即実行なのだそうだ。ただ支持率の高い大統領は暗殺の危険度も高いので、みな口々に"He is good until he died"などと言っている。首相暗殺事件の多いインドを身近に感じる。


 


そんなニューリーダ率いるインドであるが、相変わらずストリートキッズが多い。キッズだけではない、ストリートベイビーもいる。ようするに物乞いである。小さいのは2歳ぐらいの子が物乞いにくる。が、ここで驚くべきは彼らのENGLISHである。2歳児ぐらいの子が" give me money"と英語で言ってくる。


そこへ3歳児ぐらいの兄らしき子が" we are hungry"とこれまた流暢な英語で言ってくる。こちらが黙っていると" please give me some money、I have no father"と言ってくる。小学生ぐらいの子になると" You have money but I don't have money and no house. I want to sleep tonight, please give me some money"とかなり長いセンテンスになってくる。英語塾どころか学校へも行っていない子が英語を話している姿は強烈だ。つまりこの英語が彼らのライフラインにもなる。英語が話せなければ食べて行けない現実を2歳のころから叩き込まれるのである。日本人も終戦直後、必要に迫られて英語を勉強した。もっとさかのぼると幕末に生きた人たちも開国と同時に、海外の文化を知ろうと必死で勉強した。ところが今、その必死になる物が見つからない。どうして英語が話せた方がいいの?英語が話せるといい事があるの?子供達の本音である。親にとっては自らの経験や体験から英語を話せるメリットが考えられるのだが、それにしても話せないと生きていけないなどとは思いもしない。


 


インドでは英語が準公用語となっている。街にはインターナショナルスクールの看板が所狭しとならんでいる。日本と同じで、看板のモデルとなる子供達は白人である。しかし実際にはインターナショナルスクールに通う子供達のモラルが問題になっているという。インド文化を否定するわけではないが、より以上にアメリカ文化、ヨーロッパ文化に啓蒙する。サリーを捨てジーンズになる。マサラドーサ(カレー味のポテトが入ったクレープ)よりもマクドナルドを選ぶ。ナマステのご挨拶をするよりHiを連発する。年上を尊ばない。物を大切にしない。買いあさる。などなど、これはインドで読んだ新聞に出ていた記事だが、インド人の親達は心配を始めている。


 


日本に帰国した日にあわてて神社に初詣にいった。着物姿こそ無かったが、子供達が「あけましておめでとうございます。」という声にほっとした。翌日ランゲージ?ハウスの幼稚部が始まった。インドのインターナショナルスクールの記事を読んでランゲージの園児たちのことが気になり、朝玄関に立って園児達を待った。「あけましておめでとうございます。」というと、みなゆっくりと元気な声で「あけましておめでとうございます。」とかえってきた。心の中でa


happy new yearといわない子供達にホットし、次の瞬間後ろから" See, Santa


came to my house !"という英語の声が聞こえた。新年早々バイリンガル幼稚園の醍醐味を感じていた。

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