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ILH代表黒部のブログ

Holiday season

みんなそれぞれにクリスマスを過ごされたかと思います。子供たちもサンタさんから無事にプレゼントが届けられたでしょうか。万が一手違いでクリスマスを過ぎてしまっても「サンタさんは、サンタランドから日本にくる途中で道に迷ちゃたみたいなの。それで一日送れちゃったけど許してあげようね。」ということにしましょう。
さて、日本ではクリスマスが終わると、仕事納め、そしてお正月の準備に忙しくなりますが、海外ではクリスマスから新年まではスローに時間が流れます。
正確にはThanks givingが終わるとholiday seasonの始まりとなります。11月の終わりから1月1日までは、街も華やいだ雰囲気で、そこら中でパティーが開かれています。私が記憶する華やいだクリスマスとは、パークアベニューに住むファミリーが開くクリスマスパティーでしょうか。パークアベンニューに面したアパート、といってもワンフロアー6部屋以上あるような間取りです。クリスマスディコレーション専門の業者に各部屋の飾り付けをさせるので子供部屋などはおとぎの国に紛れ込んだみたいです。パティーの広間は派手に飾り付けされ、ホストとホステスは入り口でお客さんを迎えます。時々招待状にBlack&Whiteと記されているときは、男性はボウタイ(蝶ネクタイ)女性はイブニングドレス着用となります。ここで服装に遠慮して地味につくろうと、逆にパティーから浮いてしまいます。食事はディーン&デルカなどから、サービウボーイ付きのケイタリングが届きます。シャンパンは銀製のパンチボールに何本も冷やされています。こんなパティーでの会話はというと、子供の学校関係なら子供や先生の話、仕事関係ならたわいもない趣味や休暇の話です。今年一年の反省とか来年の豊富などというような固い話はほとんどしません。カジュアルに飲んで食べて、カクテルなら1時間、ビュッフェスタイルなら2時間程度でおいとまします。例外として、ユダヤ人ファミリーに招かれたときは、クリスマスではなく、ユダヤ教のHANNUKAを祝うので、これはその儀式にしたがって最後まで参加するのが礼儀のようです。ニューヨークに限っていうと、クリスマスには目に見えないルールみたいなものがあって、日本の忘年会のように1年をねぎらうというより、とにかくクリスマスになりました。乾杯しましょうといったニュアンスが強いかもしれません。ほとんどのビジネスが1月2日からスタートするので、大晦日は友達とのどんちゃん騒ぎが多く、有名なタイムズスクエアーのカウントダウンでも見られるようにシャンペンを抜き、ラッパ飲み。あるいは一晩中ダンスをしまくるか、友人宅で同じくシャンパンをがぶ飲みするかです。元日はおせち料理もないので、朝ゆっくり起きて、翌日からの仕事に備える。これが海外での大晦日です。長かったホリデーシーズンもこれで終了です。すでにクリスマスが終わるとシラける人たちがほとんどなので、日本人はクリスマス、大晦日、正月とシラける暇はない、なんとコンビニでは恵方巻きの宣伝もクリスマスケーキと並んでいました。これが日本文化になっているかと思います。なんでもあれの日本混合文化は疲れますが、これが生活の潤滑油になっているかもしれません。
ところでみなさん、今年はどんな年でしたか。

タイ事情
先々週、ビルディングメインテナンスサービスの企業から依頼で、久しぶりに通訳の仕事を受けた。場所はタイ、バンコック、引き続く日本企業の進出にそなえて、現地にあるビルメインテナンス企業との技術人材、ひいては共同出資による現地法人設立を目的とする。私は法律のことはまったくの度素人だが、人と人、とくに日本人と外国人をつなぎ合わせるスキルは持ちあわせているらしいので、サラリーマンをしていた頃から、会社の提携業務にはよく引き出され、私も日本のPRをかねて必要以上に頑張ってしまう。

私が滞在した3日間、丁度現地では政治集会、デモが行われているときで、外務省通達では、あまり行かない方がいい外国のカテゴリーに入っていた。夜中に降り立った空港も警備が厳しく、ホテルから迎えに来たタクシーの運転手も現政権に対する不満を興奮しながら話していた。ビルを指差しては「あれもこれも汚職ビルだよ。」「首相はチーティング(ごまかし)ばかりする。」と言っていた。

確かにタイの政情不安定は街を歩いていてもよくわかる。まず物価がおそろしくあがった。それと平行して乞食が増えた。以前道で出会うのは托鉢のお坊さんだったが、今回は乞食の姿が目についた。裏町の屋台は相変わらずの安売りをしているが、表通りにあるショッピングモールの商品は、日本人の私でもためらってしまうほどに値段が高い。例えばGAPなどは明らかに日本より高い。いったい誰が買うのか知らないが、スカイトレイン(公共交通電車)に乗って
くる一般庶民のものではないのは確かである。

私が思うに、タイはアンバランスなグローバル社会が進行している。これはタイに限らずアジアの国々に言えることだが、ある一部の富裕層のみがグローバル社会の市場原理を甘受でき、それ以外の人々は、グローバル化した町並みだけを眺めて暮らす一般の人たちだ。これらの人たちにとってはグローバル社会なんていうのは生活の足しにもならない、まったく異次元社会である。ただ、ある光景を見たときに、近い将来、この異次元を現実として受け止める人たちが多くなるのだと思った。それは学校である。タイにはインターナショナルスクールが多いが、一般の学校も英語にはかなりの力を入れている。私が見たのは町外れにある、一見塾のような学校だった。ところが生徒は英語で話している。タイアクセントのある非常にわかりにくい英語だが、あきらかに英語である。小学生と思われるグループだったが、10年後、20年後、日本人と国際社会で戦ったときに、その勝敗はあきらかであるような、ふとそんな気持ちにさせる光景だった。未だにアジアを後進国だと思っている日本人がたくさんいる現実、一度ノックアウトされないと現実は見えてこないかもしれない。

マンデラの教育

南アフリカの指導者、マンデラが亡くなった。27年間の獄中生活から、その人間性を失わずに社会復帰を果たし、国を白人黒人共存の社会へと導いていった。アパルトヘイトという白人の黒人に対する恐怖心が、武力による差別制度と化し、長い間この国を白人優越の社会として世界に知らしめてきた。ニューヨークに住んでいた頃、南アフリカ出身の白人と知り合ったことはあるが、黒人と出会ったことはない。黒人は国外にすら出られる環境ではなく、私も白人の話だけを聞いて南アフリカという国を想像していた。
 話は変わるが、アメリカでも黒人への人種差別は1960年代頃までは、当たり前のように行われていて、キング牧師の行った公民権運動の後、長い年月がたってやっと表面的な差別はなくなってきた。しかし2013年現在、本当に人種差別がなくなったかというとそうでもない。例えばマンハッタンを例にとると、黒人と白人の住む地域は相変わらず別々である。ただ昔と違うのは、白人が黒人を避けているだけではなく、黒人も白人の住む地域には住みたいと思っていない。大学の寮でさえ、白人と黒人のルームメートは組み合わせとして避けているようである。
 日本は、そして日本人は、黄色人種といわれるのを嫌う。たかが白、黒、黄色、赤(ネイティブアメリカンなど)と色分けしているのに過ぎないが、黄色と呼ばれるより、日本人と呼ばれたがる。そして白い仲間に入りたがる。今でも自分の子供の結婚相手に黒人を歓迎しないファミリーはたくさんいる。
 マンデラの話にもどる。彼は投獄されてしばらくの間、白人を憎んでいた。しかし獄中で白人とコミュニケーションのできる言語を独学で学び、相手が何を考えているかを聞き出す事で、なぜ黒人が嫌いなのかを理解しようとした。その結果、ある答えにたどり着いた。それは教育だった。白人が黒人を憎む、あるいは恐れることを学校が教えていた。白人と黒人は肉体的にも、能力的にも優越がることを学校が教えていた。白人は黒人とは違う生活をし、黒人はそれをまねてはいけないことを学校が教えていた。さらにそれがなぜそうなのかを学校は教えなかった。白人と黒人がもしかしたら共存できることを学校は教えなかった。
 マンデラは言っている。もし世界を変えたかったら、それは教育にしかできないことだということを知るべきであると。人間は生まれたときから憎しみを持っては生まれてこないし、恐怖心をもっては生まれてこない。教育だけが人をして右へ行くか、左へ行くかを決めるツールである。
 私たちも、日本を変えたいと思うなら、もう一度子供の教育と真剣に向き合っていきたい。

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